弁護士は独立して一人前になる? |
私は昭和63年に当会に弁護士登録(40期)し、鈴木繁次先生の事務所で丸4年勤務させていただいた後、平成4年3月に独立した。 |
鈴木事務所は大変居心地が良かったのであるが、入所の際、鈴木先生からは「弁護士は独立してやっと一人前になる」との教えを受けており、3人の兄弁護士も2〜3年で独立していたので、私もそろそろかと考えていたところ、同期の3人がそれぞれ独立し、それが私の背を押す形となった。 |
事務所は約10坪で、私とパート事務員1人という最小単位の事務所であった。前の賃借人の好みで内装が全て木造りの山小屋風のところが大変気に入ったが、エレベーターがなく、高齢の依頼者の方達には大変だったと思う。私としては毎日4階までの上り下りで多少の運動になったが、体重は減らなかった。 |
独立時、手持事件は記憶では10件位しかなく、事務所としてやって行けるのかとても不安だった。しかし気は小さいがあまり思い悩まない性格なので、「いざとなれば三食昼寝付きに戻ればいいか」と考えた。幸い、とりあえず今日まで何とかやってこられた。 |
独立当時は日本はまだバブル期だったが、その恩恵に浴することは全くなかった。それでも時代を反映して、借地・借家事件や不動産がらみの相続事件が多かった。 |
私の同期は登録当時6名しかおらず(現在は8名)、女性も既婚者も私だけで、男性同期は独身生活を謳歌していた(?)。同期で判例時報を題材にした勉強会を毎月やっており、飲み会に流れ各自抱えている事件の悩みを相談したり議論したりで、今から思うと一番屈託のなかった頃である。 |
この勉強会がなくなったのは、同期の本間豊会員が当会副会長となった平成16年頃である。1年後復活する心算だったが、諸般の事情が重なって未だに復活しないのは若干寂しい気がする。 |
忘れられないのは、弁護士登録翌年の平成元年11月4日未明、坂本弁護士一家3人が行方不明となる事件が発生したことである(当時はオウム真理教信者によって殺害されたなど想像も出来なかった)。弁護士業務の危険な側面を身にしみて認識した事件だった。 |
勤務弁護士の時は、鈴木先生を始め4名の所員がいたので、それなりの安心感があったが、独立して女性2名だけとなったときは、安全についてかなり不安もあった。しかし実際は電話での脅迫程度で、身の危険を感じることはなかった。 |
とは言うものの、弁護士1人の心許なさもあり、独立して2年3か月後の平成6年7月に、「2人でやればもう少し広い事務所スペースが確保できるね」と言って、本間会員と共同の事務所を開設した。 |
それから既に16年、アッという間であった。 |
過日、綾瀬市を中心に障害者の自立支援など多方面の分野で活躍する男性を取材させて頂いた。
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男性は活動の一環として、口に咥えた絵筆で花の水彩画を描いている。彼自身、高校生の頃に鉄棒の落下事故で首を骨折し、首から下の自由を失ったのだ。 |
将来に絶望し、自殺も考えたが、「手も足も動かず、死ぬこともできなかった」という。それでも彼は、多くの人と支え合いながら生きてきた30年余りを振り返り、「諦めずに生きていれば、いつか必ず『諦めないで良かった』と思える日が来ます」と、破顔しながら現在の心境を語ってくれた。 |
6月、川崎市の中学生が自宅で命を絶った。いじめが原因だったという。遺書には、いじめられた友人を守れなかったことを悔やむ言葉もあったと聞く。 |
正義感の強い少年だったのだろう。成長すればこの先、どんな美しい花を咲かせただろうか。 |
死を選ばなければならないほど追い詰めるようないじめは、もはや犯罪に等しい。周囲に被害を訴えることは少しも恥ずかしいことではない。電話相談でも良い。匿名の投書でも良い。自分を励ますことに疲れ果ててしまう前に心の重石を外して欲しかった。 |
どんな素敵な出来事が待っているか、生きてみなければ分からない。「あの時、諦めないで良かった」と思える瞬間は必ず訪れる。男性の言葉が改めて胸に響く。 |
本欄にはそぐわない内容と知りつつ、ほかに何を語る気にもなれず、独り言をつぶやいた次第だ。 |
(読売新聞横浜支局 松山 翔平)
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