「独立の花道を飾る無罪判決」 |
いささか面映ゆいが、1983年(昭和58年)4月10日付の神奈川新聞「ひと」欄に掲載された記事の見出しである。同年3月末、横浜地裁第4刑事部6係で、業務上過失致死被告事件について無罪判決を得た。事件は、鎌倉市の下水管理設工事のための掘削工事中、岩盤が崩れ作業員が生き埋めになったというもので、責任者である親方が刑責を問われた。当該現場における岩盤崩落の予見可能性の有無が中心争点であった。 |
土木工学や地質学上の根拠を求め、つてを頼りに大学の研究室や建設省(当時)など訪問、最終的には刑弁教官だった故西田公一先生(元二弁会長)の紹介で筑波にある農林省(当時)の農業土木研究所の技官に現地見分やアドバイスをしてもらい、方針を決定。鑑定を依頼したのは、同期の友人の勤務先事務所の顧問会社である掘削会社の常務(さる大学の講師も務める理学博士)であり、これで勝負が決したように思う。 |
1980年(昭和55年)4月に川原井事務所に入所して最初に与えられた事件であり、丸3年、30回近い公判回数を重ねた事件である。最初の数か月は兄弁の堀江永さん(26期)と一緒に担当したが、川原井先生には、堀江さん独立後も採算度外視で好きなようにやらせてもらった。様々な分野の多くの人と出会い、貴重な体験をしたと思う。 |
私は、故日下部長作先生の下で弁護修習中に川原井先生を紹介された。弁護士会旅行の水上温泉だったと思う。初対面だったが、高校の先輩だということがわかり、イソ弁にしていただくことにした。その時は、既に同期の石黒康仁さんが内定しており、同期二人採用ということだった。入所後は、スポットの事件の割当の外、顧問会社での割当も行われた。私には住宅メーカーとか不動産会社、石黒さんには損保会社、土建会社などが多かったように思う。15期のボス、26期の兄弁、32期の新人二人というのは、とてもいい組み合わせであり、人間関係も良好で、気持ちよく仕事をさせてもらった。 |
川原井事務所にいた3年間で、文献調査から現地調査の方法、メモの取り方から手紙の書き方、争点把握のポイントや説得の技術、チンピラ撃退法など実に多種多様な指導をしていただいた。料亭で度々ごちそうになり、魚の食べ方や旨さを教わって、すっかり和食党になった。 |
私は、最初の2年で仕事を覚え、3年目は事務所に恩返しをして独立、そんなつもりで3年目の途中で独立を宣言した。折良く佐藤嘉記さん(35期)が内定し、無事3年で独立できた。経済的な見通しなど立たないままの独立だったが、横須賀に家を建て、冒頭の判決をもらって晴れやかな出発となった。 |
私の弁護士人生の骨格を作ってくれたこの3年間に心から感謝している。
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