会員 山下 光 |
一件だけ覚えている事件がある。昭和51年ごろの事件であるので、弁護士になって6年目頃の事件であった。依頼者は、顧問先の紹介で、知人の社長とその弟の兄弟に係る事件であった。 |
事案は、高額所得者で有名な人(以下、某氏という)に対する認知事件で、要するに待合の彼女に子供を産ませたが、認知しないばかりか、わざわざ遺言書に「本妻の子以外に子はいない」という遺言を書いた人の相続人(形式的には検察官が当事者で、相続人は利害関係者として参加)に死後認知を迫るものであった。駆け出しの私にとって、大事件であったので森英雄先生と共同で受任した。 |
兄弟も親子として某氏が年老いてから会っているが、大変用心深く、親子が会うときは町の雑踏の中で会って食事に行くような状況で、間接証拠すら乏しい事案であった。 |
そのような事情もあって、私は、証拠を求め多くの人に会い、その供述をテープに取った。養老院にいる某氏の弟にもあった。「兄に子がいるという話は聞いたことがない」という反面、「その子の目は丸いかね」と聞いてきたので、「丸いです」と答えた。 |
当時の子守をしていた女中にもあった。「兄弟が某氏の子であることは間違いありません。某氏が来るとすれ違いに、よく兄弟を連れて公園に遊びに行った」ということであった。 |
囲われていた住まいの隣人夫婦にも会いに行った。「当時、下町の人は下駄なのに靴を履いており、その人が来ると悪いから外に出ないようにした」ということであった。 |
その他、兄弟の母は、その墓を某氏と同じ「違い鷹の羽」とし、当時は珍しい某氏の車の番号まで覚えていた。私は間違いないと確信した。兄弟の住所が東京と横浜なので、別々の裁判所に訴えを提起した。 |
横浜の裁判所は、このような事件は一人の供述を聞いて信用できると思えば、それで足りるという意見であった。自信をもって、東京の裁判に臨んだが、事件は合議となった。私は、ここで決めようと、当方が血液を提供するから本妻の子も血液を提供し鑑定をしたいという申しいれをしたが、利害関係人は拒否をした。私は、利害関係人が血液鑑定を拒否したことは兄弟に有利に働くという理解であった。 |
しかしながら、裁判所の心証ははっきりしなかった。このあたりからロマノフ王朝の遺児の話が出てきだした。克明に宮廷の内輪の話や親戚の方々の逸話を知っていても、それだけでは身分関係は立証できないのではないかという疑念であった。 |
また、利害関係人の主張に沿う証人も出てきて、どちらが正しいか対質をすることになった。 |
結局、兄弟の母の眼の黒いうちに解決して欲しいということで、和解条項の中に「子であることは自己の心にとどめ、口外しない」という条項を入れ2,500万を貰い和解したが、何となしに心は今一つ晴れなかった。 |
思い出が多すぎて何を書けばいいのか分からない。3年半あまりという人生の中で決して短くはない期間を米沢で過ごした率直な感想である。親交を深めた地元の方々とは別れ難く、今更ながら、米沢シックにかかることがある。それだけ私にとって、米沢での生活は良くも悪くも、充実していたのだと思う。 |
この点、米沢では、私の赴任当初より弁護士が増えて、現在5名の弁護士がいる。将来の開業を希望する新人弁護士もいるから、近時の弁護士増員が、いわゆる司法過疎の解消に一定の効果があることは否定できない。その中で米沢公設事務所が、これまで大過なく地域に受け入れられ、弁護士の地元定着への誘因という役割も担えたことに、喜びを感じている。 |
他方で、在任中は、事務所での相談が約1450件、市町村や弁護士会などの相談を含めると約2000件の相談を担当した。この相談件数が示すとおり、米沢の弁護士はまだまだ不足している。労が多く複雑な事件、医療過誤、福祉、知財など専門性が高い事件については受け皿も無く、このことは、こと地方の小都市では深刻な問題である。 |
そして、これは地方に限らないことだが、弁護士に対して精神的な敷居を感じている人は実に多い。収入が少なく力のない人にとって、このような状況が、正に夜明けの来ない泣き寝入りを意味するということを、米沢では目の当たりにする日々であった。 |
なお、人口9万人足らずの米沢にして、こうであるから、神奈川県下でも、同様に取り残された地域、対策が必要な環境は多いであろう。 |
さて、話は変わるが、米沢では、市内からスキー場まで車で20分。週末の仕事帰りに通い詰め、スノーボード検定1級に合格することができた。今では、板と装備を担いで、時々、バックカントリーエリアにも入っている。夏の飯豊稜線からの眺望は最高で、朝日連峰の深い原生林も忘れられない。 |
第二の故郷米沢での経験はかけがえのないものであったことを紹介して、本稿の結びに代えることにしたい。 |
(会員 徳田 暁) |