家は建たないが
毎日の飲み代には事欠かない |
私が丁度広報委員だった時に横浜弁護士会新聞は発刊された。当時、囲みの企画記事をどうしようかという話し合いがもたれた。その新企画のひとつとして、この「私の独立した頃」が生まれ、今ではこれが長寿企画としてつづいている。しかもこの企画に執筆するのは長老かベテランばかりかと思っていたら、単に還暦を過ぎただけという病み上がりの私に依頼がきたというので驚いている次第である。 |
私がイソ弁として大村武雄先生の事務所に入れていただいたのは昭和53年4月のことである。その後、次々とイソ弁が増え、私が独立した昭和63年ころには馬場、黒田(和)他の各先生がいて仕事が終われば毎晩事務所のどこかで飲み会がはじまり不夜城の如き観を呈した。時々大村先生が、当時まだ隣にあった寿司幸から寿司をとってくれたりして、そのにおいをかぎつけた佐藤(克)先生や庄司(道)先生などまで押しかけて談論風発が夜遅くまでつづいたものだった。新聞や会報の編集も締切りに間に合わなければ、夜、事務所に場所を移してつづけられた。 |
当時、広報担当だった田中茂副会長が、そばでじっと編集作業を見守っておられ、「終りました」と報告するや、「終わったか。よーし、飲みに行こう」と言われ、編集委員の面々、肩を連ねて関内の居酒屋にくりだしたことを覚えている。その田中茂先生も幽明境を異にしてすでに久しい。その時のことを思い出すと今でも熱いものがこみ上げてくる。 |
私の独立したあの頃はそういった時代であった。何もかも旧式でみんなで手作業で作り上げる喜びがあり、そばにはいつもしっかりと寄り添ってくれる先輩の熱い視線があった。当時は弁護士会も会員300人程度でそんなに大きくなかったし、携帯電話もなく、パソコンもなく、要するに世間全体も我々の仕事もずい分ゆったりしていた。 |
ところが、周囲があっという間に携帯もパソコンも使えない私を追い越していったのはそう時間はかからなかった。 |
昭和63年ころ、私は同期の馬場先生と同じ弁護士ビルの8階に独立した。独立すれば当然のことながら事務所の経営に心を砕かなければならない。もとより経営者になるための訓練などまったくしていない私も馬場先生も四苦八苦でした。しかし、当時は右肩上がりの時代で食うには何とか困らなかった。ひとことで言うなら「家は建たないが毎日の飲み代には事欠かない」程度の収入であったと思う。 |
何とはなしの不安と希望と闘志があった時代であった。 |