設置4年目を迎えた全国の法科大学院が共通して抱えているであろう問題意識あるいは危機意識というべきものを、横浜国立大学の実務家教員川島先生が本紙前号で率直かつ的確に描き出して下さった。まったくもって同感である。教員も学生も、明確な理念のもとに創出された法曹養成の場に希望をもって身を投じたはずが、眼前に出来する現実の情景はといえば、理念など痴れ言かのようにひたすら醜怪な相を深めるばかりである。 |
さすがに法科大学院制度が崩落にまで至る事態を想像するのは難しいだろうが、ただそうだとしても、この壮大な社会的構築物が既にして重度の変質過程にあることは紛れもない。変質とは、理念からの退却。潰走というべきだろうか。その元凶が新司法試験の現状にあることは知ってのとおりである。制度設計時に約束されていた高い合格率が、いっかな実現されぬまま、まるでうたかたの夢だったかのごとく遠景に去りつつあるところに、すべての歯車を狂わせた大本がある。 |
それだけでも憂悶するに十分なのに、まるで追い討ちをかけるように湧き上がった大がかりな試験問題漏洩「疑惑」。競争試験と化した現状が考査委員制度の実情と組み合わされば、問題の漏洩は、関係諸氏の貧寒たる資質以上に、制度的な帰結といわれてもやむをえないものかもしれない。だがそれにも増して喫驚すべきは、事態の発覚を受けての関係諸機関の初動対応である。拙速以外に適当な言葉の見つからぬ文科省からの調査要請。公正さも説得力も欠いた法務省(司法試験委員会)の「事実確認」。及び腰だった法科大学院協会。本質の究明が回避され、責任の所在があいまいなまま、疑惑というにはあまりに明白なこの不正義は、人々の記憶のなかにくぐもり隠れる道をたどっていくのかもしれない。 |
こうした事どものツケを払うのは法科大学院だけではない。弁護士会を含めた法曹界全体である。現に、面妖な事態の連鎖に、多くの有能な人材が法曹界に足を踏み入れる決断を躊躇しはじめている。適性試験受験者数の悄然たる減少の様がそれを端的に物語っている。よもや法科大学院全入時代が来るようなことはないだろうと願望をこめて思うが、問題をいっそう深刻にしているのは、量の低減に加え、受験者層(質的側面)についても不祥の変化が見て取れることである。多彩な人生経験に裏打ちされたすぐれた社会人の参入が減り、これに非法学部出身者の集団規模が縮まって、法科大学院の教室は−誇張を怖れずにいえば−新卒の法学部出身者であふれかえりつつある。そしてさらに強まる予備校化への圧力。 |
法科大学院は未来の法曹を養成する場として設置されたはずである。当然のごとく、そこが人的にやせ細るということは、法曹界の裾野が狭まることにほかならない。遠からぬ未来に弁護士会をも直撃する、端倪すべからざる事態である。晦冥にすぎるかもしれないが、理念に忠実であろうとするほどに気のむすぼれる法科大学院の現状に、揺曳するこの国の明日がおぼろに見えてしまうかのようである。 |
神奈川大学大学院 法務研究科委員長 阿部 浩己 |
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会員 福田 護 |
弁護士は、徒手空拳、一人でも対等に権力と対峙できる。−私も、そんな漠然としたイメージを拠り所に、弁護士になった一人である。 |
こういう弁護士像に対して、弁護士のあり方の多様化、相対化が論じられ、現に進行してきたし、司法制度改革と弁護士激増の過程で、あるべき弁護士像はますます拡散してしまいそうにみえる。ただそれでも、弁護士自治という制度については、「不用だ」「どうでもいい」という乱暴な意見は、弁護士業界にはほとんどないであろう。 |
そしてその弁護士自治は、やはり、「基本的人権の擁護」という弁護士像と不可欠なのではないだろうか。弁護士自治は、弁護士の職務の独立性の制度的保障であるが、その独立性を守るべき相手方は、やはり対国家権力というものを抜きにして考えることができないからである。なお、いうまでもないが弁護士自治の担い手は弁護士会である。 |
そこで憲法改正問題であるが、筆者は、弁護士や弁護士会ほど、この問題をみずからの問題として受け止め、広く深く議論し、会員間でできるだけ多くの認識を共有できるようにすべき職業、職業団体はないと思っている。 |
たとえば、2005年10月の自民党新憲法草案は、国民の義務や責務を強調する。それは、弁護士が擁護すべき権利の章典としての立憲主義とは、ベクトルが逆向きである。曰く「帰属する国や社会を愛情と責任感と気概をもって自ら支え守る責務」(前文)。曰く「自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚しつつ、常に公益及び公の秩序に反しないように自由を享受し、権利を行使する責務」(12条)等々。こういう権利の制限、義務の強化の条項は、弁護士業務や弁護士自治の基本的なところに、影響を及ぼさないはずはない。 |
あるいは自衛軍の創設についての危惧。1945年8月15日というのは、日本にとって、戦争という巨大な犠牲の上にもたらされた国民主権国家へのターニング・ポイントとしての「近代革命」でもあったろう。日本国憲法は、究極の人権侵害としての戦争を放棄することと一体のものとして基本的人権を確定した市民権利宣言といえる。人権擁護のための弁護士自治も、この憲法の構造のもとで確立された。その歴史は、未だたかだか60年にすぎない。60年の試練にも耐えられずに憲法が絶対的平和主義の理念を失ったとき、これと不可分に形成された人権の保障の枠組みも、再び「国家のため」等として大きな変容を迫られることにならないか。 |
こうしていま、弁護士こそまず、その業務や弁護士自治への影響も含め、憲法改正問題について、賛否両論、幅広い議論をしておかなければいけないのではないか。司法制度改革と弁護士激増の過程で、弁護士自身の人権意識の希薄化が危惧されるとすれば、なおさらである。 |
憲法改正国民投票法が成立し、いつでも国会の場で現実に憲法改正論議がなされ、3年後には国会の発議もできる法体制がつくられた。他方で政治的には、参議院選挙での自民党の後退によって、憲法改正案がそのまますぐに提起されにくい状況にはなった。いま、すこし落ち着いて議論できる絶好の、そして大切な時期だと思う。 |