私は今年62歳になりました。平成18年度に日弁連副会長を勤めさせて戴きました。つい少し前までは、自分でも「まだまだ私は、若いんだ」とそう信じておりました。ところが、60歳を過ぎますと、友人の奥様からの「主人は先月永眠いたしました」という訃報や「主人の喪中につき」のハガキや、小学校、中学校、高校の同窓会でも黙祷が目立ってくるようになりました。 |
全国でも、60歳を過ぎて一人で事務所を運営されている先生が相当数おられると聞いております。「杉弁護士は、昨晩までピンピンしていたのに、今朝は起きて来ないで、コロッと逝かれたらしいですよ」と、私にもその日が忍び寄って来ていることを自覚せざるを得ない年齢です。そこで、今のうちに、私の経験から若手弁護士採用の勧めをさせて戴こうと思いました。 |
当会でも「あれ程の実績を残された先生が、急に亡くなられたために、依頼事件の引き継者を割り振るのに、大変だったんですよ」という話は何件か耳にしたことがあります。私は現在、大木孝(42期)・剱持京助(45期)・古田玄(52期)・小室充孝(57期)と4人のパートナーに恵まれ、12月には修習終了の若手が一人入って来ます。ですから、いつ私にコロッとの順番が廻って来ても、依頼者に迷惑を掛ける心配はない状態になりました。 |
それと若手採用の最大の喜びは、「自分がもう一度若返ることができる」ことです。一緒に依頼者から事情を聴取し、訴状の起案をしながら議論をし、判例を調べて貰って訴状を完成させる。訴状が出来上がった日は、一緒に晩飯を食い、酒を飲みながら、ほとんどが作り話の私の自慢話を聞いて貰って悦に入る。そして「私もまだまだ老けこんではいられない。もう10年は頑張るぞ」と、元気を貰うことができることです。この喜びは、その昔、セーラー服とポニーテールの似合う、眼のクリッとした少女から「杉君、おはよう」と声を掛けられ、振り向きぎわのさわやかなリンスの香りを胸一杯に吸い込んだ時の、あの時の喜びに匹敵するものです。 |
先生方が30数年培われた、「弁護士はいかにあるべきか」「弁護士はいかに生きるべきか」を身をもって若手に教え伝える一番手っ取り早い方法は、一緒に同じ事件を扱って戴くことです。毎日同じ事務所で、事件についての議論をして戴くことであります。そして、若手弁護士の就職が困難なこの時期にあって、先生方の「良し、一人採用してみよう」のご英断が、即独の後輩を少なくし、先生方の貴重な経験と実績を継承させる最良の方法だと信じ、若手採用をお勧めする次第です。 |
(会員 杉 茂)
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私ははっと息をのんだ。
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警視庁捜査1課担当をしていた昨年1月。東京・江東区のマンションで女性が行方不明となり、その後同じマンションに住む男が女性を殺害するなどしたとして逮捕された事件の初公判でのことだった。 |
男は女性の遺体を処理するため、解体し、水洗トイレに流すという方法をとった。その遺体の一部、解体された指など数十枚の画像が廷内のモニターに映し出されたのだ。ひんやりと静まる廷内、そして一拍おいて涙を流す遺族。 |
決して多くない私の裁判取材の中で、初めての光景だった。こうした形で遺体の一部を見たのは殺人事件などを扱う捜査1課を担当する記者であった自分でも初めての経験だったのだ。 |
それからおよそ半年後、裁判員裁判制度がはじまり、多くの一般市民らが裁判員として法廷に立った。 |
「裁く」ということは決して容易なことではない。あらゆる要素を受け入れ、飲み込んで、判断することが求められる。時には、目を背けたくなるような事実に対し、目を凝らして見ないといけないときもあるだろう。 |
報道は、そういった裁判員となりうる一般市民に対し、ある種判断するための要素となりうるものだ。 |
偏った報道は場合によっては「先入観」ともなり、裁かれる立場の人生を大きく狂わせることにもなりかねない。 |
7月から横浜で働き、地裁担当として裁判取材をしている。報道記者として、すべての人が見るであろうテレビという媒体の記者として、曲がった情報を流すことのない、真実を報じることをこれからも心がけていきたい。 |
(日本テレビ 松永 新己)
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