五神発のDNA
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私のボスは五神辰雄先生。先生は、高等文官試験の行政官・司法官両方の試験をパスした後、商工省の官僚となり、戦後、神奈川県へ出向、副知事や県広域水道企業団初代理事長などを歴任された後、余生をボランティア活動で過ごそうと弁護士をめざし、59歳で司法研修所へ入所された。私とは同期(28期)で横浜修習の同じ班という出会いであった。親子ほどの年齢差を感じさせないほど先生は愉快で若々しい修習生であった。修習終わり頃、先生から事務所を一緒にやらないかと誘われた。開設資金や経営の危険負担を全部負って下さるという。先生となら仕事もあるだろうからと一緒の独立開業をOKした。 |
1976年4月、五神法律事務所を開所。先生縁のシルクホテルで県政関係者を中心に先生の再出発を祝う会が行われた。二次会は料亭美登里で。県知事さん達お歴々の前で、27歳の私は、ぽつねんとするしかなかった。 |
しかし、若造の私に対して先生は偉かった。新調の机・椅子などは先生のと同一、給料も同額。先生には小遣い銭程度であったが私には家族の1か月の生活費。また、先生は事件の方針を決めた後、私に任せた以上は処理方法から報酬額まですべて任せ切る。そうなると任された方は全部自分の責任でやらざるを得ない。このため、イソ弁歴のない自信のなさから、文献に当たり、同期や知り合いの書記官に訊ねるなど勉強せざるを得なかった。任せる方も相当忍耐が要ったはず。この時期にした勉強は今日の基礎となっている。 |
そして、先生は、ゴルフ、麻雀など遊びの師匠でもあった。また、戦時中軍部から睨まれソ満国境やセレベス島に送られたことなど私に戦争体験を語り、人に奉仕することの大切さを教えた師でもあった。 |
ところが、1981年6月、先生が急逝した。32歳の私は本当にまいった。事務所には、前年入った野原薫さん(32期)と事務員さん2名がいた。当時、薬害スモン訴訟弁護団から頂いた報酬などで約300万円の蓄えがあるだけであった。敷金を払った後この所帯を維持できるかまったく自信がない。野原さんが「先生、やりましょうよ」と言ってくれた。皆に貯金通帳を見せ、「なくなったら解散」と宣言して事務所を継ぐこととした。幸い、未亡人や顧問先からもご厚情を頂き、負担なく承継することができた。 |
あれから26年。私も先生と出会ったときの先生の年齢になる。私の弁護士生活のDNAの多くは五神発のものと感謝している。 |
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