横浜弁護士会新聞

2007年6月号  −3− 目次

理事者室だより2
副会長 三嶋 健

印象に残る挨拶を

 理事者に就任して、人前で挨拶をする機会が増えました。弁護士会が何を言うのだろうと、注目している中で話しをするのですから緊張します。
 正式な会合に招待されたときは、当然挨拶をすることになりますので準備をして臨みますが、前に挨拶した方に準備していた内容を話されて焦ってしまったと先日挨拶をした副会長がぼやいていました。
 挨拶で何が重要かと言われると迷うのですが、会場にいた人に聞いてもらえることかなと思います。
 先日、会の職員全員との懇親会があったとき、竹森副会長が、「参加者の中で私が一番ということがわかりました」と切り出しました。何のことだろうと全員が次の言葉を待っていると、「参加者の中で一番小柄なのは私です」ということでした。誰からも頼られていて小柄だということはみじんも感じさせていなかったので、二度びっくりでした。参加者が食事をする手を休めて思わず聞き入ってしまう出だしでした。
 このときの懇親会で冒頭の挨拶をしたのは会長でした。当日、会長も含めて6人の理事者がそれぞれ挨拶をしたのですが、一番短く、強烈な印象を与える挨拶でした。指示が錯綜したら悩まず執行部に相談すればいいという内容だったと思います。最終責任は会長が持つという強い意志が全員に伝わりました。
 私も、近々、隣接士業の総会に招かれて挨拶に行きます。
 会を印象づける挨拶ができたらといいと思います。
 

私の独立した頃(108)
会員 清水 規廣

五神発のDNA

 私のボスは五神辰雄先生。先生は、高等文官試験の行政官・司法官両方の試験をパスした後、商工省の官僚となり、戦後、神奈川県へ出向、副知事や県広域水道企業団初代理事長などを歴任された後、余生をボランティア活動で過ごそうと弁護士をめざし、59歳で司法研修所へ入所された。私とは同期(28期)で横浜修習の同じ班という出会いであった。親子ほどの年齢差を感じさせないほど先生は愉快で若々しい修習生であった。修習終わり頃、先生から事務所を一緒にやらないかと誘われた。開設資金や経営の危険負担を全部負って下さるという。先生となら仕事もあるだろうからと一緒の独立開業をOKした。
 1976年4月、五神法律事務所を開所。先生縁のシルクホテルで県政関係者を中心に先生の再出発を祝う会が行われた。二次会は料亭美登里で。県知事さん達お歴々の前で、27歳の私は、ぽつねんとするしかなかった。
 しかし、若造の私に対して先生は偉かった。新調の机・椅子などは先生のと同一、給料も同額。先生には小遣い銭程度であったが私には家族の1か月の生活費。また、先生は事件の方針を決めた後、私に任せた以上は処理方法から報酬額まですべて任せ切る。そうなると任された方は全部自分の責任でやらざるを得ない。このため、イソ弁歴のない自信のなさから、文献に当たり、同期や知り合いの書記官に訊ねるなど勉強せざるを得なかった。任せる方も相当忍耐が要ったはず。この時期にした勉強は今日の基礎となっている。
 そして、先生は、ゴルフ、麻雀など遊びの師匠でもあった。また、戦時中軍部から睨まれソ満国境やセレベス島に送られたことなど私に戦争体験を語り、人に奉仕することの大切さを教えた師でもあった。
 ところが、1981年6月、先生が急逝した。32歳の私は本当にまいった。事務所には、前年入った野原薫さん(32期)と事務員さん2名がいた。当時、薬害スモン訴訟弁護団から頂いた報酬などで約300万円の蓄えがあるだけであった。敷金を払った後この所帯を維持できるかまったく自信がない。野原さんが「先生、やりましょうよ」と言ってくれた。皆に貯金通帳を見せ、「なくなったら解散」と宣言して事務所を継ぐこととした。幸い、未亡人や顧問先からもご厚情を頂き、負担なく承継することができた。
 あれから26年。私も先生と出会ったときの先生の年齢になる。私の弁護士生活のDNAの多くは五神発のものと感謝している。
 

常議員会のいま 会議は踊るか?
会員 折本 和司
 平成19年度常議員会の第1回が4月12日に開催された。第1回は、何だかのどかで、事前のシナリオどおり(?)、松浦光明議長、鈴木義仁副議長が選任となった。
  常議員会といえば、白熱した議論でロングランになる、議論がかみ合わなくて収拾がつかなくなる……てなことが時にあったりしたわけで、それをどうまとめるかについては、議長、副議長の議事進行テクや理事者サイドの事前準備の周到さが物を言ったりするんだろうけれど、そうはいっても、こんなことに時間かけなくてもいいだろうといいたくなるような人事案件の説明が延々と続いたり、配布資料を読めば判るというような議案の内容について、担当副会長の口頭説明がくどくど続いたりすると、私の場合、途端に集中力と意識が失われたりするのだ。今回の常議員会では、その辺りの議事のバランスがどうなるのか、まだ始まったばかりでよくわからないけれど、実質的な議論が必要な議題について十分な時間が確保されるような進行となるかどうか注視しつつ、議論に関わって行こうと思う。
 なお、第2回では、刑事事件の被害者の刑事手続への参加に関する会長声明について、なかなかに面白い議論があった。この問題について立場を異にする委員会が当会の中に並存していることもあり、立場の違いが反映され、議論のまとめどころで会長や議長がちょっと混乱してしまうようなこともあった。会議はちょっぴり「踊っていた!」ようだ。
 

こちら記者クラブ 「裁判を感じること」
 この原稿が弁護士会新聞に掲載されるころには、私は横浜を去っている。5月の1日をもって私には社から辞令が下され(るはずであり)、京都市で初めての行政取材に再び苦労し、「ひいこら」言っているはずだからだ。
  横浜で過ごした2年間では、後半の1年間−誰に任命されるわけでもないまま−司法取材を担当させていただいた。考えてみると失礼な話なのだが、裁判について誰にも教わらず、何も知らぬまま、無鉄砲に取材に乗り込む毎日だったかと思う。
  事件を多く扱う特性上、刑事裁判の取材をすることが多かったが、すぐに警察取材とは違う「生々しさ」に衝撃を受けた。当たり前ではあるが、我々は法廷内にいる被告人に取材することは認められていない。しかし、被告人の言葉を直に、そして、ありのまま聞くことが許される。警察取材ではどれだけ取材しようとも、「容疑者は○○と話してるよ」と「又聞き」しかできないが、裁判では、どんな被告人であろうとも−たとえ黙秘をしようとも−本人を直接目の前に、目や耳で「感じること」ができるのだ。
  「もうしません。お願いします」。法廷内に響いた、振り絞るような声。初めて傍聴した裁判だった。唯一主張することを与えられた場。裁判官にすがるように涙ながらに頼んだ被告人の姿が目に焼き付いて離れなかった。
  少し取材に余裕が出てくると、傍聴席を見渡すことができるようになった。被害者の遺族、被告人の家族……。立場は全く違うのに、同じ場で、被告人の発言の一つ一つに怒り、悲しみ、涙する。こういう場は、これまでほかに、見たことはなかった。
  「裁判を感じること」。要素を詰め込む裁判原稿では、見えにくい部分かもしれない。しかし私の拙い原稿の、行間の一文字一文字の間に、それを読み取ってもらえただろうか、と心に照らしながら京都に発とうと思う。

(産経新聞 森川 潤)

 

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