差し入れできなかった原稿用紙 |
第55期 伊藤 諭 会員 |
東京から登録換えで川崎に来た私は「新人」のご多分に漏れず刑事事件を多く手がけていた。その中のひとつ、単純な暴力行為等処罰法違反、住所不定無職の被告人の話である。 |
私はいつもまず被告人に手紙で事案等に関して回答してもらっている。通常はそっけない回答がほとんどだが、彼は違った。表裏にびっしりと自作の小説が書いてあり、最後に老眼鏡と原稿用紙を差し入れるよう指示してある。あらすじは、多摩川の河川敷で自分をモデルにした主人公が大手飲料メーカーの缶コーヒーを飲んで空を見つめるといったものだ。この数行が何千字にも及んでいるのである。これは決して褒めているのではない。 |
接見に行くと、彼は私が若いということでへそを曲げてしまった。腹が立ったが、話が小説に及ぶと少し顔が緩むのを私は見逃さなかった。聞けば本気で出所後は大手飲料メーカーのエッセーコンテストの賞金30万円を当てにしているらしい。執行猶予の見込みについては何度となく聞かれたが、彼は大賞の見込みを聞いてきた。こんな質問は後にも先にもこれっきりだ。「面白いんじゃないですか」。口が滑った。心裡留保。それを境に私と彼は和解した。 |
後日、老眼鏡と原稿用紙を百円ショップで購入していった。老眼鏡は大丈夫だったが、原稿用紙は交渉したものの差し入れられなかった。接見後、宅下げで裁判官宛の手紙を受け取った。身上や反省そして全く同じ文面の小説が書かれていた。 |
公判では手紙を証拠提出した。今後について話が及ぶと、「俺は才能を見つけたから、もう悪いことはしねえ」と不機嫌そうに、しかし力強く言った。多分に主観的ではあるが、更生の「意欲」というものを実感した(なお、裁判官に「才能って何?」と聞かれたがその詳細は割愛する)。実刑事案だが、求刑からは相当減刑された。 |
あれから数か月、事務所で缶コーヒーを飲みながらふと見上げると書棚にあのとき差し入れできなかった原稿用紙があった。 |