横浜弁護士会新聞

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2001年3月号(3)

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不肖の弟子だった私だが破門されずにすんだのは・・
 私は、昭和四七年弁護士登録時から五年間、川原井常雄先生の事務所にて初代イソ弁としてお世話になった。私が初代修習生として先生に面倒をみて頂いた縁からである。先生の性格は大変几帳面で、早く私を一人前の弁護士に成長させるため懇切丁寧に指導をして下さったが、当の私があくまでもマイペースを崩さなかったので、相当イライラされていたようだった。
 当時、先生は十二指腸潰瘍を患っていたが、その原因の一端は私にあったのかもしれない。夜一〇時過ぎまで事務所で仕事をされ、自宅には寝に帰るだけという生活をされていた先生の口癖は、「弁護士である以上、毎日家族と一緒に自宅で夕食を摂ることなど論外」であった。然し、私自身は、仕事と家庭の両立(特に、子育ては両親で行う)を信条にしていたので、夕方五時頃になると当然のように事務所から帰ってしまい、二年遅れて二代目イソ弁となった堀江永弁護士に五時以降をお願いしていたため、私は川原井先生の五時以降を殆ど知らないまま五年間過ごした。
 師匠の教えに従わない不肖の弟子だった私が、途中で破門されずにすんだのは、先生が当時まだ「仏の川原井」でいて下さったお陰と感謝している。
 昭和五二年四月の独立にあたり、自前の事務所を開設することになったが、数年先に自宅を買い替える希望もあり、事務所開設資金を最小限に抑えることにした。備品も全てを購入したのではなく、中古品を貰い受けたりもし、事務所の選び方も裁判所に近いことの外に保証金や敷金が少額であることが条件となっていた。このようなことから現在まだ借り続けている事務所がマイオフィスに決まった。
 独立してからの収入については、独立したての大方の弁護士と同様に国選弁護事件の報酬に頼るところが多かったが、川原井先生のお力添えにより損害保険会社の顧問弁護士になることが出来、次第に収入は安定して行った。それでも、数年後に多額のローン付きで自宅を買い替えた後暫くは、ローン返済が出来なくなったら自宅を手放す覚悟で、冗談半分に幼い子供たちに室内を傷つけたり汚したりしないよう言い聞かせていた。
 昭和五二年の出来事として今でも覚えているのは、江田五月氏(政治家だった父親の急死により、裁判官から急遽同年夏の参院選に立候補して当選し、以後政治家に転向された)のことである。交通事故の案件で横浜地裁の第六民事部(交通部)に出向くことが多かったが、同氏は昭和五二年以前から交通部の裁判官をされていた。和解期日には直接同氏と対話することになり、ミーハーだった私としてはなんとなく嬉しくもあった。同氏には、辞職の前日の夕方に和解を成立させて貰ったこともあり、翌日のニュースで辞職を知って大変驚き、そして当然ながら選挙では応援した記憶がある。
 さて、私の師匠であった川原井先生は、ここ数年体調を崩されていたが、昨年暮れには終に事務所を閉鎖されてしまった。寂しい限りである。先生にお世話になった門下生は、初代の私から最後の狩倉弁護士まで実に一〇人を超える人数となっており、それぞれが門下生の名に相応しい生き方を考えている今日この頃である。


 昨年四月の弁護士登録以来、何件か国選事件を受任したが、実刑判決が続いていた。
 いずれも執行猶予期間中に犯罪を繰り返した事案等特に私の弁護活動がまずかったからではない(と信じたい)が、やはりいつまでも実刑が続くのは気持ちいいものではない。
 ある時、新件(覚醒剤の使用・所持)の記録を閲覧してみると、過去に同種の執行猶予判決があるが一〇年前の話で、再度の執行猶予も全くあり得なくはないことが分かった。
 被告人にそれを告げると「是非もう一度やり直したい」と意欲満々なので、初の執行猶予判決獲得に向けて一肌脱ぐことになった。
 その後調書を精査し、被告人が警察でも検察でも「五年くらい前からやり始めてこれまで一〇回くらい使っている」と正直に話しているのを知って脱力したが、そこには触れないことにして情状立証に力を注いだ。
 情状証人には前回の法廷でも被告人の監督を誓ったはずの母親しかいないという苦しい状況でしかも、公判当日舞い上がってとんでもないことを言い出すのをほとんど誘導尋問で乗り切った感じである。
 判決当日はラッキーアイテムである赤いネックレスをつけていったが、私にはめずらしくかなり緊張した。
 求刑が懲役二年だったので、裁判官が「被告人を懲役二」といった時点で小さくガッツポーズ。執行猶予五年で保護観察がついたが、裁判官もかなり迷ったらしく、いつになく長い説示の後、被告人は解放された。
 判決によると、被告人に書くように提案した反省文や勤務先の親方の上申書もさることながら、二回の公判とも心配そうな顔で傍聴していた母と姉の存在が大きかったようだ。
 気分良く事務所に戻ると、拘置所から出された被告人の礼状が届いていた。とても三七歳とは思えない拙い字と文章だが、素直に嬉しい。最後の「また連絡してもいいですか」との問いには未だに答えていないが。


 昨年一二月一一日、横浜市戸塚区の公文国際学園において、当会司法改革推進委員会の委員が講師となり、「出前授業」が行われた。
 同校の進路指導の一環として、高校一年生を対象に、弁護士の仕事と役割に関し講演を行った。講師は、前記委員会の大学市民交流部会員である筆者のほか、本間春代会員と野木大輔会員がつとめた。
 冒頭、筆者より、今後導入が予想されるロースクール制度を含め、司法試験制度及び司法修習制度の概要を説明し、続いて、本間、野木両会員による講演がなされた。本間会員は、自身が担当した少年事件について、逮捕状の写しを示しつつ、付添人活動の実際及び少年事件に対する想いを熱く語った。野木会員は、テレビドラマに出てくる弁護士と実際の違い、弁護士の収入など、高校生が興味をもつであるう題材について、新人弁護士の視点で解説を行った。講演後質疑応答がなされたが、多くの質問が出され、終了後講師に直接質問に来る生徒も多数いた。
 大学市民交流部会では、、「市民に身近で信頼される司法」を目指し、昨年から大学及び高校への出前授業を行っている。公文国際学園における授業は昨年七月に続き二回目であったが、将来ある高校生に弁護士及び司法制度についての正確な知識を持ってもらうことは、地道だが重要な司法改革のための活動である。また、熱心な生徒たちの姿にふれることができ、講師をつとめた弁護士にとって貴重な経験となった。
(同部会部会員 狩倉博之) 

4月1日より実施 法律相談謝金の20%を法律相談センターへ
 一ないし三号議案は人事案件。四号議案は、某県立高校の有名ブラスバンド部の部員が部活を巡る悩みから自殺に至った事件の人権救済申立事件に関するもので、前々回の常議員会にも提出され、自殺した生徒の同級生への配慮や文章表現上の問題があることなど理由に承認に至らなかったものである。しかし、今回の警告書は、前々回の議論を踏まえた改訂がなされており、異議なく了承となった。内容は、高校の責任を認めたうえで、こうした痛ましい事件が二度と起きないように学校長に警告するというものである。
 五号、六号議案も、前回の常議員会において、説明不足・資料不足等を理由に継続となっていた、県及び横浜市の法律相談謝金の二〇パーセントを法律相談センターが徴収することに関する議案である。
 今回、理事者側は、コスト計算の他、当会及び他会の財政事情や会費外収入の状況等に関する詳細な資料を示して常議員の説得に努めた。その結果、この件はようやく了承となった。
 この説明用の資料は非常に詳細なものであるが、グラフ化されていて大変判り易く、作成の裏に大変な努力があったことを感じさせられるものであった。
 七号、八号議案は犯罪被害者支援対策委員会設置の件である。こうした委員会の設立には理解を示す意見が多かったものの、現在の逼迫した会財政との問題点が指摘された。
 しかし、理事者から財政的な負担はほとんどないとの説明があり、最終的には了承となった。
 九号議案は、弁護士報酬(費用)の敗訴者負担制度に関し、司法制度改革審議会の中間報告が「基本的に導入する方向で考えるべきである。」としていることに対して、この制度が訴訟に対する萎縮的効果を有し、国民をさらに裁判所から遠ざける結果になることを理由に、中間報告の「基本的に導入する方向で考えるべきである。」との部分についての反対意見を表明しようというものであり、異議なく了承となった。
 一〇号議案は、法律扶助協会と当会の民事扶助事業・自主事業業務委託契約締結に関する件であり、扶助協会側提示の案で契約を締結することで了承が得られた。
 第一一号議案は、法廷通訳問題に関し、日弁連に対し、日弁連から最高裁宛に「通訳制度問題」についての協議機関の設置を申入れるように求めるものであり、異議なく了承となった。
 その他、国選弁護士推薦手数料値上げに関する理事者からの求意見案件が一件、他に報告案件が二件あった。前者については、理事者から具体的な統計を示した詳細な説明がなされたが、今回は、常議員会として特段の意見集約は行わず、後日の常議員会で審議することとなった。
(副議長  瀬古 宜春) 

常議員からズバリひとこと
 東京から独立して三年目で常議員会に出席させていただくことになりました。相模原市内に事務所があるという事情もあり、他の常議員の先生方は初めてお目にかかる方ばかりで不安でしたが、常議員会は、白熱した議論を重ねながらもアットホームな雰囲気で、最近は私もすっかり態度が大きくなってしまいました。今後の法曹人口の増加に伴い、常議員の定員もいずれは増員を余儀なくされるかもしれませんが、この横浜弁護士会の良き伝統が受け継がれていくことを希望してやみません。
(四四期 齋藤 佐知子) 


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