久連山剛正会員の巻 |
私が弁護士登録をしたのが昭和四六年で、独立したのが昭和四九年である。同期の鈴木明弁護士と一緒に故川島政雄先生の事務所でイソ弁としてお世話になって、今の弁天通り二丁目の事務所は、最初は私の同郷(山形)の先輩でもある佐藤卓也弁護士と二人で持った。その後一年して鈴木明弁護士も合流して現在の三人体制の事務所となった。佐藤弁護士も川島事務所の出であるから三人共川島先生の門下生である。 |
以後この三人体制は現在まで二六年間続いているので不思議といえば不思議であるが、当の私達にとっては至って当然のような雰囲気で来てしまった。三〇年近くも一緒に居れば夫婦でも喧嘩位は何回もあるだろうが、正直言って事務所の体制や運営について気まずい思いをしたことは、少くとも私は無い。 |
三人体制と言っても経費分担型の個人事務所の集りであるから、事件処理は原則として別個であるが机だけはキチンと三つ並べて仕事をしている。だからお互いの電話などは全部耳に入ってしまうのであるが一切気にならないし、気にしない。そして三人とも殆んど一日中口をきかない。口をきかないでいられるということは気を遣わないということであり、私はこれが一番長持ちする秘訣だと思っている。少くとも私自身は気遣いをせず居させてもらっている。ちなみに私の血液型はB型であり、佐藤弁護士はA型で、鈴木弁護士はO型である。ABOのバランスがとれているのかも知れない。 |
また遊びの方も同じ経過を辿っている。マージャン、カラオケ、ゴルフ。私の独立した頃は特にマージャン熱に囲まれていたように思う。五時過ぎると川島ビルの一階のマージャン屋「あたみ」に二卓か多いときは三卓位の賭場が立ち、出入りしていた弁護士の常連は一〇人位いた。 |
話は変って、昭和五〇年前後というと、戦後のどん底から出発した日本経済が高成長を続けて頂上付近にさしかかっていた時期で、ただひたすら生産性を追い続けた結果のマイナス面というか病理的な側面である公害問題が深刻化の様相を呈していた。横浜弁護士会でも有志が川崎の大気汚染による被害者の方々の聞き取り調査などを行ない被害実態の調査報告書を出した。公害健康被害補償法の制定について会内で論議があったりして、同法が施行されたのは私が独立した昭和四九年である。また反体制的な学生や若者の情熱も激しかった時代であり、横浜地裁ではアスパック事件の審理が行われていた。 |
一九〇〇年代は第一次大戦、第二次大戦があり、その中でロシア革命、中国革命その他多くの革命があって歴史の激流の中に身を置く感じもあったが最近は革命という言葉も色あせてしまって淋しい感じもする。 |
(株)テイジン・エスアールエル・ラボDNAフィンガープリント事業部部長の樋口十啓氏を講師として、最近流行のDNA鑑定に関する研修会が一一月八日午後二時から弁護士会館五階で開催された。 |
「そもそもDNAとは何か?」から始まり、最新の鑑定法の原理に至るまでをスライドを中心として視覚的に説明された。 |
樋口氏は各地の単位弁護士会でも講義されており、その講義は素人かつ文系のわれわれ弁護士にも非常に理解しやすいもので、そのせいか会員からの質問も活発になされ、なかなかの盛況であった。 |
また、骨髄移植をすると、血液だけがドナー(提供者)と同じDNAとなるため、一人の人間なのに二つのDNAを持つようになるなど、極めて興味深い話題もあった。DNAという話題の性質上、メンデルの法則などという忘却の彼方にあった生物学上の概念に話が及ぶこともあったが、生物アレルギーのある私ですらすんなりと聞くことができた。 |
なお、樋口氏のお話によれば、下手な概説書を読むよりも高校の生物の教科書の方が最新の内容まで盛り込まれており一番お勧めとのことである。 |
日本では、DNA鑑定による親子鑑定は年に一五〇〇件から二〇〇〇件程度で(うち裁判所では五〇〇件程度)、アメリカ合衆国における実施数の約一〇〇分の一であるそうである。もっと積極的にDNA鑑定を活用しようという気になるような極めて有意義な研修であった。 |
ちなみに、気になる鑑定に係る費用についての質問はなぜか出なかったが、配布資料によれば、母子と疑父の三人が鑑定対象者の場合、検査料・解析料・鑑定書料合計で二五万円だそうである。 |
(二川 裕之)
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