横浜弁護士会新聞

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1999年3月号(2)

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あなたの事務所の危機管理は?
平成11年1月25日 弁護士業務妨害シンポジウム開催
 「人格障害者による業務妨害」をテーマとする日弁連と当会の共催による弁護士業務妨害シンポジウムが、小堀樹日弁連会長の参加を得て一月二五日ホテルニューグランドペリー来航の間において開催された。参加者は二二単位会一五一名に及んだ。
 本シンポジウムは第一回目の開催。第一回目の開催地に当会が選ばれたのは、最悪の業務妨害である坂本事件が当会で発生し当会が業務妨害のシンボル的存在になっていること、日弁連業務妨害委員会担当副会長が当会山下光会員、委員長が当会伊藤幹郎会員であり、当会が熱心に業務妨害に取り組んできたことによるものである。
 シンポジウムは、小堀樹日弁連会長、井上嘉久当会会長のあいさつに続き、当会景山秀人会員による「坂本弁護士一家殺害事件その教訓」の特別報告、東京弁護士会奥田保会員による「渡辺興安弁護士殺害事件」、第一東京弁護士会南部憲克会員による「岡村勲弁護士婦人殺害事件」、福岡県弁護士会三溝直喜会員による「福島法律事務所女性事務員傷害事件」の事例報告がなされた。
 次いで、「人格障害者の業務妨害にどのように対応すべきか」についての東京大学保健センター駒場支所精神保健室長藤山直樹氏による講演がなされた。同氏は、一対一の関係の中でクライアントを補助するという点では精神科医と弁護士は似た面があると指摘された上、人格障害の概念、人格障害のタイプ(反社会性・境界性・自己愛性・演技性・妄想性各人格障害)、人格障害者の対人関係の問題点、人格障害者に対する精神科医の対応と講演を進められた。
 講演全般非常に示唆に富むものであったが、やはり弁護士の日常業務にとってもすぐに役立ち得る精神科医の対応で説明された 1.治療の明示化・恒常化 2.限界設定 3.つねに攻撃性を話題にする 4.治療者側の失敗に素直になる 5.助言・指示をしない・侵入しない 6.「木で鼻をくくった」ような誠実が非常に参考になった。
 休憩後、日弁連業務妨害委員惠崎和則会員(当会)・池末彰郎会員(東京)の司会、パネラーを藤山直樹氏・奥田保東京弁護士会会員・南部憲克第一東京弁護士会・水野幹男名古屋弁護士会会員として、参加者からの質問をおりまぜ、パネルディスカッションが行われた。話題の中心は、やはり藤山氏の講演が中心となった。
 最後に、日弁連業務妨害委員会委員長伊藤幹郎会員が今後何度も本シンポジウムを繰り返し開催したい旨宣言し、日弁連山下光副会長が業務妨害に対して組織化しての対応の必要性を訴えられ閉会の辞とされた。
 シンポジウム終了後、場所をレインボールームに移し和やかに懇親会が行われた。  尚、日弁連から「弁護士業務妨害対策マニュアル」が配布されたので、当会の「マニュアル」と同様是非参考にしていただきたい。 (弁護士業務妨害委員会 副委員長 渡辺  穣)


弁護士偏在問題
関東弁護士会連合会・弁護士偏在問題対策委員会開催
 去る一月二九日、関弁連弁護士偏在問題対策委員会の定例委員会が、関弁連から七名、当会から井上会長以下六名の出席を得て、当会館五階会議室において開かれた。
 右委員会では、昨年から、毎月、委員が各単位会に出向いて委員会を開催し、各単位会の法律相談委員会等の担当者から、各単位会における弁護士偏在の状況や、偏在問題への取り組みについて説明を受け、そこで得られた情報に基づき、より具体的な偏在問題対策を検討するといった活動を行ってきており、今回は七回目となる。
 当日は、まず、当会側から、当会においては、地理的な弁護士偏在はさほど深刻な状況にはないものの、なお法律事務所のない自治体が少なからず存するという事実、他方、新たに、市民の弁護士に対するアクセス障碍という広義の偏在問題が意識されてきつつあるという現状説明とともに、偏在問題についての取り組みとしては、昨年二月に、弁護士偏在地域の自治体を主な対象として法律相談担当弁護士派遣制度を発足させたこと、今年の二月には海老名に常設の相談所を開設し、より利用しやすい法律相談体制を目指していること、また高齢者や障害者など、法律相談を受けたいが会館まで出向くことが困難な市民のために、弁護士の方が出向いて行く出張法律相談制度が検討中であることなどが説明された。
 これに対して、偏在問題委員会の委員からも色々な質問がなされ、当会の弁護士偏在問題への取り組みに対する関心の高さが窺えた。 (偏在問題委員会委員  中村 俊規)


私の独立した頃
訴訟日誌から -君、事件は続いてやってよ-
 私の独立は何時だろう。
  私は、昭和五〇年四月一日に、五年間お世話になっていた平川巴先生の事務所から離れて、三原法律事務所を開設した。だから、世間的には矢張この頃が独立した時なのだろう。『然し』と、思う。私は、弁護士には、知力、体力、気力が必要だと考えている。独立の時に私にはそれがあったのか。
  私が厄介になった平川巴先生は弁護士会の会務と『ゆく春』という俳句の会に専念して、事件数は非常に多かったが、すべてイソ弁任せであった。
  そのため、独立する一年前には、平川先生に来年四月には独立させてもらいたいとお願いしておいた。然し、五〇年の三月になっても、後任のイソ弁の話をきかないので、御自分でおやりになるのだろうと思っていた。三月下旬頃には、事件の引継書も全部書いて、三一日の午後、平川先生にお世話になった挨拶をし引継をしようとしたら、『君、事件は続いてやってよ』と、一声であった。これには驚いた。
  この原稿のために、二四年振りに昭和五〇年の訟廷日誌一頁の事件一覧を見ると、一月における前年からの持越し事件数は、訴訟や調停の民事事件だけで三七件ある。うち、二九件は平川先生の事件(ボスの事件)である。四月の独立時でも大きな変化は無かっただろう。従って、八件が自分の事件である。
 当時、川崎支部には、国選事件が多く、市の無料法律相談も支部会員が担当していたので、四人家族の生活も趣味の花作りに精を出しても、何とかなるだろうと考えての独立だった。当然時間の余裕はあったが、ボスの事件全部を引き受けることになるとは予想もしなかったのである。
 事件が終了して報酬を貰うと平川先生から「御礼」と書いた金一封が届いた。お互いに金銭関係のことは一切話をしなかった。
  翌五一年の訟廷日誌を見ると、二六件が前年からの民事持越し事件になっており、うち私の事件が一二件でボスの事件が一四件である。私の事件が四件増加して、ボスの事件は一五件減っており、これは一年間で解決したことになる。
  五二年四月には、平川先生は後任のイソ弁を採用し、私は平川事務所の事件を引継いだが、長年の継続事件三件は、平川先生の希望で手元に残した。
  一年跳ばして、昭和五四年の訟廷日誌をみると、二五件が前年からの持越しでうち一件がボスの事件である。私の事件は二四件となり独立後一六件増加している。この頃には、事務所は軌道に乗ったといえると思う。
  ボスの最後の事件は、昭和五五年に終了した。九年を要する難件であったが私の『独立した頃』は、ボスの事件と共に五年間に及びようやく独り立ちしたというべきであろう。
 この間、幸い趣味の花作りにも精を出してお誉めを頂く花も咲かせ、子供は独り増えて五人家族となった。


勘弁連地区別懇談会
日弁連の抱える 課題について 活発な議論
 平成一一年一月二二日「ロイヤルホールヨコハマ」において、関東弁護士会連合会の平成一〇年度第二回地区別懇談会が開催された。
  地区別懇談会とは、日弁連執行部と関弁連が意見を交換する一日内閣的なもので、今年度第一回の静岡に続き、今回は当会が担当会となった。
  当会宮島副会長の司会の下同福田副会長の開会の辞で始まり、日弁連会長、関弁連理事長等の挨拶、日弁連事務総長による会務報告が行われ、議事に移った。
  地区別懇談会議事は、恒例により担当会である当会井上会長が議事進行司会・同大河内副会長が補佐となり進行した。
  「司法改革ビジョン問題」「委員会派遣当番弁護士制度問題」「少年法改正問題」「司法書士会との業務範囲等をめぐる問題」「法律事務所法人化問題」「(修習生の)事前研修問題」等々多岐に渡り熱心に討議された。
  当会佐藤副会長の閉会の辞の後、会場を中華街に移し、懇親会が行われ、関弁連所属一三弁護士会から多数の会員の出席を得て懇親の実を上げた。

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