「中国漫才歴」15年の恋 |
中山 秀行 会員 |
中国文化に恋情を抱いている私としては、20年前に中国を学び始めた頃から市井に暮らす普通の中国人の何気ない普通の生活や言葉に執着していた。それが漫才(中国では相声=シアンションという)を学び始めたきっかけである。 |
H氏という相方も見つかった。北京方言が混じる科白は歯切れよく、むせ返るような北京の横丁の匂いに私達はのめり込んでいった。 |
細かいことは省くが、私の中国における本拠地は鎮江。そこに揚州評話の名人王筱堂先生がいたこと、その先生から鎮江に行く度に指導を受けられたことも僥幸であった。 |
王先生は4年程前に亡くなったが、習い始めて15年位の間に古典といえる候宝林の作品を中心に演目は10ばかり。鎮江へ行けば結婚式や食堂あるいは農村で演じさせてもらっては、それなりに笑いを取れるようになった。 |
鎮江郊外の農村は南京へ進撃する日本侵略軍と中国側ゲリラとが激戦を交えた場所であり、当初はぎこちない雰囲気もあった。しかし今では農場の皆さんが集まり芸達者(これがプロ並みにうまい)が次々と壇上にあがって演芸合戦となる。 |
喜んだ地元の人が芸人の着る長衫という服も作ってくれた。そういった私共に、ある時地元の江蘇テレビ局が取材に来たことがあった。放映されたかどうかは分からないまま帰国し、そのことも忘れて、また日本で煩瑣な日常を送っていた。 |
しばらくして民裁教官だったK先生が名古屋高裁長官を退官されたのを御慰労申し上げ、東京で何人かが集まって献酬し合っていたところ、K先生がいきなり私に「中国で一体何で漫才なんかをやってんだ。この前名古屋のテレビに出ていたぞ」と言われてびっくりした。一瞬この先生退官してついにボケたかなと思ったが、考えてみたら鎮江と三重の津市は姉妹都市だし、江蘇と中京の地元テレビ局同士も交流があるのかも知れない。 |
ただ、日本で放映されたのであれば、それは尚更恥ずかしいことである。(次号に続く) |
記憶に残るのは失敗例 |
弁護士となって約1年半、まだ新人として扱ってもらえるのかと思う反面、いつになったら新人を卒業できるのかと考えたりもする。少なくとも役所の法律相談で相談者と間違われているようでは、脱新人はまだまだ先の話だろう。 |
1年半の中で、記憶に残るのはやはり成功例よりも失敗例である。成功例が記憶に残らないのは大して成功した試しがないからではないと信じたい。 |
特に記憶に新しいのは、破産審尋のため富山地裁に行った時のこと、正確には行こうとした時のことである。 |
その日、富山空港に着くはずの飛行機は雪のため小松空港に着陸した。富山空港上空を30分以上旋回した挙句にである。 |
そういや高校時代に、肺に穴が空いたまま小松空港から飛行機に乗ったら胸に激痛が走り、死にかけたな、などと懐かしい思い出に浸る間もなく、慌てて電話で依頼者と裁判所に期日に間に合わないことを伝えた。 |
結局、期日は延期せず、依頼者が一人で審尋に行くこととなった。表向きは依頼者が早く終わることを希望したからであるが、気を遣ってもらったのかも知れない。 |
せめて自分に出来ることをと、予定より長く機内で読めた実務書から得た知識を駆使し、出来る限りの指導はしたものの、本来の役割のほんの一部も果たせなかった。 |
にも関わらず、依頼者はなぜかえらく感謝してくれ、帰り際にはお土産までいただいてしまい、そんな気遣いに却って申し訳なさを強め、高校時代に引き続き北陸で胸を痛めることとなった。それと同時に依頼者が、いかに弁護士を信頼し、期待しているかを感じさせられた。そして、その信頼は、これまで多くの先輩方が長年にわたって積み重ね、築き上げてきた成果に他ならない。新人だからなどと甘えた気持ちを持たず、自分も一人の弁護士として、少しでも依頼者の信頼や期待に応えるべく、努力していかなければならないと改めて考えさせられた一件であった。 |