創刊当時は記事の書き方も編集もまだ手探り状態であったが、意気だけは盛んであって、皆すっかり新聞記者になりきっていた。当時は民暴が大きな社会問題となっていた。第2号では浜松一力一家事件で負傷した三井弁護士を現地へ訪ね「現地ルポ」を特集、「本紙では岡部光平記者を現地へ特派し、退院後間もない三井弁護士へのインタビューを中心に緊迫する現地の状況をルポした」とのリード文に続き1面全段を使って詳細に事件を分析している。当時、新聞の出来は企画の善し悪しと執筆する記者の筆力に負うところが大きかったが、当時の記者諸兄のセンスや筆力は今読んでも誠に刮目すべきものがある。 |
スポーツ記事にも熱が入った。第2号には地裁との野球対戦記事が載っている。見出しは「豪打爆発!地家裁を一蹴」である。 |
ところが結果は5−4で「薄氷の勝利−辛くも逃げ切る」とでもすべき内容だったから、読み手を惑わす羊頭狗肉の見出しだと裁判所の人から皮肉を言われた。 |
記事も「横弁は制球に苦しむ地裁長浜投手から3つの四球を選び、一死満塁一打同点の好機。この好機に7番木村がツースリーからの好球を見逃さずジャストミート」などと、いかにも敵を翻弄しているかの如し。 |
もっともこの記事も野球部にいた木村(保)記者か岡部記者が書いた自画自賛の筆であったものだからいい気なものだ。
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新しい企画は陸続として出た。シリーズ隣近所(隣接各職域のトップに書いてもらった)、私の独立した頃、川島清嘉会員のロースクール体験記、シリーズトラバーユ(大学教授へ転身した竜嵜会員がトップバッター)、私の新聞批評(会員からの辛口の当紙への批評)等。しかし、載せる記事の量が増えたのだろう。企画記事は段々と消えていった。 |
記事差し替え事件という前代未聞の出来事も起こった。すでに印刷も終了し、発送寸前になって理事者から待ったがかかったのである。記事について再三検討が加えられたが、やはり出さぬが無難だろうということになった。しかし、急な差し替えだから代わりの記事が間に合わない。やむなく手前味噌の広報委員会紹介の記事で埋め何とか切り抜けた。いかなる理由で差し替えになったか興味のある方は、ボツの新聞も事務局に保存されているから確認して下さい〈第26号〉。 |
(元副委員長 中山秀行会員) |
「トンツクツ?」 |
濱田 崇 会員 |
中和田囃子保存会、通称「中和田囃子連」に入れてもらって早8年ほどになる。 |
私の家の近くには神社があり、夏の八坂神社例大祭、秋の長島神社例大祭、鹿島神社例大祭、大晦日深夜からの新年祭等々と、神社総代と地元の方々が中心となったお祭りが盛況に行われている。 |
8年前のある日、自治会の当番で神社の世話人としてお祭りに参加したところ、当時の総代に「おいしいお酒も飲めるヨ」なんて囁かれて入会となる。 |
江戸の神田囃子が海側を通り、下川井あたりから当村に伝わったとされる「浜の手神田囃子」だが、お囃子には譜面がない。すべて長老からの口伝えである。トンツクツ、トロスクトン・トロスク・トロスク・トントロ…「そこはトロスクだからトントロじゃないだろう」なんて、最初はこの呪文のような唄を覚えるのに苦労した。ペンを握るとお箸を持つと、トントン動かして覚えたものだ。 |
私が入会させてもらった当時は、古稀を迎える長老を筆頭に30代後半になる私が一番の若造だったが、最近は同年代の仲間も増え、老いも若きも和気藹々である。 |
本業より遊びが多い?と思われているようで、秘書が「外出してます」と言うと、「釣り?お祭り?」と尋ねる客人もいて苦笑している。 |
しかし、仕事と関係のない仲間と遊ぶのはことのほか楽しい。「40過ぎて覚えた遊びは大変」と言うが、そんなものか(笑)。 |
そろそろまた大晦日。囃子連に入れてもらってから紅白歌合戦は家で見たことがない。肌を刺すような厳寒の深夜、今年も神社でたき火をぼんぼん焚きながら、樽の御神酒をガンガンいただきながら過ごすことになる。今年も平穏に過ごせたことを神様に感謝しながら。 |