日々頑張るしかないんだな |
「俺って何て貫祿がないんだろ」、弁護士になって以来いつも感じていることです。修習生になりたての時も自分のスーツの似合わなさには辟易しましたが、現在の貫祿不足のほうがより深刻です。 |
警察署の入り口で「ちょっと、どちらに御用ですか」と怪訝な顔で呼び止められることはしばしば、依頼者の方には弁護士だと気付いてもらえず「そちらのお兄さん」と呼ばれたり、仮に気付いてもらっても「何年目くらいなんですか?」と聞かれることが殆ど。警察で呼び止められるのは人相が悪いせいかもしれないとしても、その他の原因が貫祿不足にあることは間違いないです。 |
(1)声のトーンを低くしてみる、(2)姿勢をよくしてみる、(3)十分に下調べをしてから話す、(4)目に力を込めてみると色々試してみましたが、(1)気が付いたら早口で声のトーンが上がっている、(2)気が付いたら背が丸くなっている、(3)不意の事態に対応できない、(4)ただガンを付けているみたいになる・・・あまり効果なし。 |
そもそも「貫祿」とは、「貫」が甲冑の重さ(一貫は三・五キログラム)、転じて武士の持つ戦闘能力の高さをあらわすことや「祿」が武士の領地の石高や給与をあらわすことが語源となって「身に備わっている堂々とした威厳、身体・人格などから感じられる人間的重々しさ」(三省堂「大辞林」)という意味になったそうです。 |
戦闘能力の高さ・・・弁護士でいうならば(1)正確な知識、(2)豊富な経験、(3)巧みな交渉力、(4)依頼者を安心させる包容力、そして(5)事件を解決する情熱等々でしょうか。 |
日々、地道に一生懸命がんばるしかないんだな。書いていて気付きました。 |
「俺、こんなことで悩んでいたんだぁ、へへ」、何年もたって懐かしさと気恥ずかしさいっぱいでこの記事を読み直している自分の姿を想像しながら、早速、今日も接見に行ってくることにします。警察署の入り口で呼び止められても何のその!! |
法律家と国民とのコミュニケーションの重要性について |
第56期司法修習生 分部 悠介
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指導担当の武井先生は、通常の法律事件のみならず、各委員会活動、講演、社外取締役として取締役会に出席する等々非常に幅広い活動をなさっていて、私も常に武井先生に同行させて頂いたおかげで、非常に色々と考えるきっかけが与えられた。 |
その中でも、ここでは「法律家と国民とのコミュニケーションの重要性」について考えることを述べる。 |
昨今、司法制度改革について盛んに議論されている。裁判所を始めとする各機関が魅力的なパンフを作り、新聞などでも裁判員制度や法科大学院といったことの紹介がなされるようになってきた。 |
ただ、これらを見ていて、どうもしっくりこない感じがするのは私だけであろうか。 |
「弁護士に相談したくても、そもそもどこで働いているのか分からない」「費用がいくらかかるのか皆目見当がつかない」「自分の抱えている問題を得意としている弁護士に頼みたいがどうやって探せばいいのか」、これらは私が広告会社に勤務していて弁護士広告に関する業務の一環として、一般国民の法律家に対する認識をリサーチしたときに得られた代表的な意見である。裁判官や検察官のことになると、もっとあいまいな認識しか持っていなかった。 |
「法律家は国民から遠い所にいる」というのは大半の人が納得する現状認識であると思われる。このように、国民の法律家に対する認識が薄い状態であるにもかかわらず、やれ司法改革だ、やれ裁判員制度だと法律家の未来のあり方に関する個別の制度のみを国民に対してPRしても、本当の意味での「身近な司法」というのは実現しないと私は思う。 |
法律家とはこういう者であって、こういう仕事をしていて、国民生活にとってこのように寄与している、ということをしっかり国民とコミュニケーションをとって、理解を持ってもらった上で、司法制度改革について理解を求めていかないと、司法制度及びその制度改革に関する国民の認識は脆弱なままである可能性があろう。 |
私は、司法制度改革が議論されている今こそ、裁判官・検察官よりも相対的に活動の自由が確保されている弁護士こそが、法律家の中心となって、単なる司法制度改革のPRに止まらず、積極的に国民との骨太なコミュニケーションをとっていき、国民の法律家に対する理解を深める努力をより一層すべきであると考える。 |
私も一法律家として、「司法改革」を自分なりに実践していきたい。 |
(指導担当 武井共夫会員) |